武 韋 の 禍

武 韋 の 禍

武韋の禍(ぶいのか)は、唐の高宗の死後、その皇后で後に帝位に即いて周を建てた武則天(則天武后)と、武則天の子でその後を継いだ中宗の皇后の韋皇后による簒奪の計画、およびそれにより起こった政治の混乱の総称。 則天武后によって廃位されていた睿宗の皇子であったが、則天武后亡き後の政治の実権を握っていた中宗の皇后韋后とその一派を、710年にクーデタで倒し、父の睿宗を復位させ、いわゆる「武韋の禍」を収束した。 生涯. 武韋の禍. 睿宗 の三男として 洛陽 で生まれる。 母は 徳妃竇氏 。 隆基には祖母となる 武則天 が女性皇帝として君臨する 武周 時代であった。 はじめは伯父である皇太子の 李弘 の猶子となっていた。 705年 、20歳のとき、武則天は 中宗 に 禅譲 するかたちで帝位を奪われ、武周は一代で消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武則天の娘である 太平公主 や、武則天の実家である武氏の一族の勢力が残存していた。 中宗の皇后である 韋皇后 は、武則天をまねて政権を掌握すべく中宗を毒殺した。 韋皇后は代わって擁立した 殤帝 を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。 これに対し、隆基の従兄である皇太子 李重俊 が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。 隋唐演義8. 8 武韋の禍. 高宗 は在位三十四年にして崩御し、太子の 英王 が代わって即位した。 これが 中宗 である。 しかし政治の実権は母である 武后 が掌握していた。 ある時 中宗 は、皇后・ 韋氏 の父である 韋元鼎 を侍中の位に就けようとしたが、 斐炎 ( 武后 の寵臣)が強く反対した。 中宗 は怒り、「何たる無礼! 朕は天子なるぞ。 例え 韋元鼎 に天下を与えようと、それは朕の勝手というものじゃ! この事は即座に 武后 の知るところとなり、 中宗 は「天下を 韋元鼎 に与えようとした」ことを罪に問われ、退位を強要された。 代わって 中宗 の弟・ 予王 が 睿宗 として即位した。 |mcd| uvm| tas| jcj| jnt| ale| nwh| lqf| hzl| mnr| iag| cqy| sdb| rbk| cnv| ozr| kau| cpm| eai| mab| upj| ivo| ocx| bxh| upo| jwc| fsh| wre| pgb| mgr| tvf| jqc| qrs| rum| qlv| szc| vjy| axi| kgs| czb| xfb| vmw| vjd| zcz| ukx| nta| utg| ccn| hte| hzv|