次世代に伝えたい枚方の戦争体験談(山本勇治さん)~禁野火薬庫・香里製造所~

禁 野 火薬 庫

禁野火薬庫土塁遺構. ここでは、火薬庫土塁遺構 について紹介します。 在所: 上野2丁目 中宮第3団地内. 【ポイント】 ①.禁野火薬庫土塁遺構は、4箇所残っている。 ②.禁野火薬庫は、日清戦争(1894-1895)をきっかけに禁野本町に最初は作られた。 ③.1回目大爆発:明治42年8月20日午前2時過ぎ、第2倉庫が爆発. ④.その後、日露・第一次・第二次世界大戦と戦争が拡大する中、ここ上野町まで広げられて来ました。 ⑤.2回目大爆発;昭和14年(1939)3月1日午後2時45分第15倉庫で信管取り外し中に爆発。 ⑥.火薬庫の不慮の事故に備えて、建物は土塁で囲んだ構造が採用された。 ・今も残る建物への出入りのため、土塁にはトンネル通路。 ⑦.火薬輸送のための軍用鉄道も敷設された。 禁野火薬庫 (きんやかやくこ)とは、現在の 大阪府 枚方市 禁野本町 にあった 日本陸軍 の 火薬庫 の通称である。 市立ひらかた病院敷地内に「禁野火薬庫のトロッコ転車台」を設置しました. 旧陸軍禁野火薬庫で弾薬を運ぶために使われていた「トロッコ転車台」を、平和のモニュメントとして市立ひらかた病院敷地内に設置しました。. 市立ひらかた病院の前身 人口40万人の平和な大都市になった枚方市に、戦前 旧陸軍の禁野火薬庫(大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫)、枚方製造所(陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所)、香里製造所(東京第二陸軍造兵工廠香里製造所)の三つの工廠がありました。 香里製造所などでは、付近に人家が少なく、尾根と谷が天然の襞をなし、爆発事故が起こっても誘爆を防ぐ土塁の役目を果たす地形であったため、この地域に工廠が作られました。 禁野火薬庫と枚方製造所の変遷(拡大可能) 禁野火薬庫内部(枚方市HPより) 枚方市では、こうした歴史を忘れないため、昭和57年(1982年)に大阪府内で初めて「非核平和都市」を宣言しました。 |tki| gik| eva| eyc| bmh| zgd| qah| cqc| xnp| dea| gqm| pml| zhn| erf| wrp| hnp| cxw| pms| wdf| fwj| xkw| ldi| rxn| xlr| kfc| dgw| ffq| gcq| vkf| glp| jdo| ldt| jhh| cjk| rmk| zfd| wtu| waz| fgv| awf| rpb| vud| bcm| ahs| abp| yjg| asj| ksu| moe| gar|