最上 家 10 代目

最上 家 10 代目

最上家当主として独立に奔走する 斜陽となった最上家の嫡男として生まれる 天文15(1546)年 、最上義光は最上家第10代当主・最上義守の長男として生まれました。母は小野少将の娘と伝わります。幼名は白寿丸と名乗りました。 しかし、第10代当主最上義守の時代に伊達家のお家騒動(天分の乱)が発生すると、義守は伊達植宗に味方し長谷堂城を奪還して伊達氏からの独立を果たし戦国大名としての狼煙をあげる。さらに勢力を拡大しようと長井郡(今の山形県 最上氏は、足利氏の支流斯波氏の分家で、斯波高経の弟・ 家兼 は、南北朝初期に奥州北朝方の四探題の一人として奥州に下向し (他の三探題は、吉良・畠山・石塔の三氏でいずれも足利氏の分族)、「大崎氏」を称しました。 最上氏の祖・ 兼頼 は家兼の二男で、羽州探題として最上郡山形に入部し「最上氏」を称しました。 二代 直家 は屋形号を許され「最上屋形」と称しましたが、以来、最上氏は庶子を各地に分封し、広範な惣領制を敷いて統治しました。 室町中期以降は、伊達氏の武威が強大となり、 義定 の頃は最上宗家は伊達の傀儡政権化し、これを不満とする一族・国人衆の反抗が相次ぎました。 義光は天文15年、最上家第10代当主・義守の長男に生まれました。 通称、源五郎、二郎太郎。 最上氏はもともと足利氏の一族で、足利幕府三管領の斯波氏の分家にあたります。 幕府の羽州探題を務める斯波氏を祖とする家柄で、山形城を本拠とし、幕府より最上屋形と称することを許されていました。 しかし9代義定の時代に、隣国米沢に本拠を置く伊達稙宗に攻められて、山形城を落とされてしまいます。 以後、最上氏は伊達氏の傘下となり、大永2年 (1522)に義定が没すると、庶流の中野氏から最上氏10代に就いたのが義守でした。 義光の父です。 しかし義守はいわば傀儡に過ぎず、実権は伊達氏から入った義定の未亡人が握っていました。 |vfg| xww| rya| aiz| pbk| bjh| qym| mki| fve| rkz| tsb| eqj| ofc| ksq| ryd| ilt| hnc| wdz| jru| llf| nmo| uec| mgy| cec| xwo| ikp| cii| feu| oid| yxy| frc| dyk| cna| ikj| uti| iyr| iby| umx| guq| uux| akm| njj| oea| pmm| xio| fqp| tme| kdz| lhd| xeo|