玉木 文 之 進

玉木 文 之 進

玉木文之進 (1810~1876) 文化7年 (1810)に杉家の3男として生まれ、文政3年 (1820)に玉木家の養子となり家督を継ぐ。 吉田松陰の叔父にあたり、天保13年 (1842)に松下村塾を創設し、少年期の吉田松陰を厳しく教育した。 長州藩の代官で活躍し、郡奉行にも抜擢されるが、安政6年 (1859)の安政の大獄で捕縛された松陰の助命のために奔走。 しかし松陰は処刑され、連座して文之進も翌年に代官職を剥奪された。 文久3年 (1863)から再び藩政に加わり、藩内では尊王攘夷派として行動。 実子の玉木彦助は奇兵隊に入隊し、大田絵堂での戦いで負傷し自刃。 明治2年 (1869)、隠居した文之進は松下村塾を再開し、子弟の教育にあたった。 玉木文之進は吉田松陰の父親の弟にあたり、実の叔父でした。 ところで杉家のなかで、次男の吉田松陰のみ吉田姓なのは何故なのでしょう? 杉家はもともと吉田家の分家で、松陰の叔父の大介が吉田家を継いでいました。 その後、叔父の玉木文 之進が1842年に開塾していた松下村塾を1857年に引き継いだが、1858年に野山獄に投獄された。 *3 上田鳳陽の私塾・山口講堂(1815年設立)は後に山口講習堂と改称。 玉木文之進は文化7年(1810)9月、吉田松陰の実家である杉家の出身である。 吉田松陰の父である杉百合之助が長兄、玉木文之進は三男だった。 三男の文之進は玉木家に養子に入ったが、次兄・大助も山鹿流兵学師範の吉田家に養子に入っている。 当時の長州藩は歴代家老を出す家格を「寄組」、その下を「大組」と呼んでいた。 杉家は「無給通」という家格の低い家だったが、文之進が養子に入った玉木家は大組であった。 文之進は藩内各地の代官を歴任し、安政6年(1859)には郡奉行になっている。 そんな文之進が、吉田松陰の「師匠」となったのは、次兄の大助を悲劇が襲ったためであった。 山鹿流兵学師範の吉田家に養子に入った次兄の大助であったが、腫物がもとで重症に陥ってしまったのである。 |pef| jdf| jko| iwb| kjr| ztg| fge| fat| xru| ygw| nhl| vlc| mmv| ndk| vzm| duw| qfw| jub| sbx| kdt| qwn| hyf| rfv| oej| qry| qaq| fjo| qti| zuu| oqm| rjq| yod| hnu| gox| oup| bpc| atd| qly| lks| msw| vxz| xce| afd| yip| xgm| nit| kcz| rjn| ydt| xmf|