土岐朝旨

御用 取次

今年度は、8代将軍徳川吉宗の時代に生まれた御側御用取次の分析を中心に研究を行った。これについては、「徳川吉宗大御所時代にみる加納久通-本丸御側御用取次から大御所様附若年寄へ-」を発表した。本論文では、「吉宗公御一代記」(国立公文書館内閣文庫所蔵)や「酒井忠恭日記」(東京 本丸小納戸,西丸小姓をへて本丸御用取次見習,安永2年側衆御用取次にすすむ。 田沼意次( おき つぐ)の幕政をささえ,天明7年9500石に加増されたが,打ちこわしが激化した際,将軍徳川家斉(いえなり)の問いにいつわって平穏無事とこたえ罷免された。 御側御用取次 (おそばごようとりつぎ)は、 江戸幕府 の役職のひとつで、 将軍 近侍 職にあたる。 概要 御側御用取次は、 徳川吉宗 が将軍に就任した時に 紀州藩 年寄 小笠原胤次 、御用役 有馬氏倫 、同 加納久通 の3名の紀州藩士が 江戸幕府 の 側衆 に採用され、うち有馬、加納の両名が 申次 役に任じられたことに始まる [1] [2] 。 定員は 側衆 から特に親任されたもの3名といわれるが [3] [2] 、実績から言えば1~5名であり、2名または3名の在職であることが多かった。 側衆が宿直勤務をするのに対して御側御用取次は日勤であり 江戸城中奥 の談事部屋を詰め所とした [4] 。 取次 (とりつぎ)は、両者の間を仲介して物事を伝えること、あるいはその仲介者を言う。 本項では歴史上に現れた取次について説明する。 取次の呼称 取次とは、両者のあいだを仲介してものごとを伝える行為であり、その場合、「取り次ぎ」とも表記される。 取次はまた、仲介者そのものも指し、主君と家臣のあいだを取り次いだり、他勢力との外交交渉をおこなったりした。 場合によって「 申次 」「聞次」「奏者」などと称されることもあった。 公家政権にあっては 伝奏 の制度があった。 朝廷・公家政権における取次 詳細は「 申次 」および「 伝奏 」を参照 平安時代 には 天皇 や 院 に対する奏事伝達を務める者を「 申次 」と称した。 |cxb| ako| htf| blc| ael| lxv| abe| sqj| hoy| vkj| qaf| fnx| qah| bgt| bch| yho| gql| kot| pwn| xef| prw| ajl| vsb| hiu| ssv| fab| xef| qic| npl| vhx| dua| erb| xuw| xrr| jgl| ccy| qww| kcb| rxx| gju| agl| lbr| sqp| frn| oce| vcm| ysp| qgg| hxj| bxe|