【世界史】 明・清の時代3 清の中国侵入 (18分)

李自成 の 乱

中国,明末の農民反乱指導者。 陝西省 米脂の 貧農 出身。 若いころは牧童などをしたが,のち駅卒となった。 しかし駅站の廃止によって失業した彼はついで兵隊となった。 おりしも1628年(崇禎1)ころ陝西地方には 干ばつ による大飢饉が起こり,各地で飢餓農民の暴動が発生していた。 彼は食糧の欠配などのため不満をたかめていた兵隊を率いて反乱に加わった。 初期の反乱指導者は王嘉胤(おうかいん)であったが,彼が明軍に討たれたあと,高迎祥が反乱軍を率い,李自成はその下で隊長となり闖将(ちんしよう)と呼ばれた。 各地を転戦するうち,36年高迎祥が戦死すると,彼は闖王と称し一方の首領となったが,このころ反乱勢力は後退し,他の首領も多く明軍に下った。 清はその後、中国本土の明が 李自成の乱 によって滅んだことによって、 1644年 に 北京 に入って都を盛京から移し、李自成の反乱を鎮圧して中国支配を開始した。 清朝は明朝にひき続き、北京の 紫禁城 に入ったが、 呉三桂 など、漢人部将の 藩王 は地方に自立しており、また 鄭氏台湾 など明の遺臣を称する勢力が残っていた。 1667年 に親政を開始した 康煕帝 は、藩王の力を削減をめざし 1673年 からの 三藩の乱 によって呉三桂らを 1681年 までに倒し、漢人勢力を抑え、中国統一を達成した。 明の武将 呉三桂 は山海関の守備にあたり、よく戦っていたが、1644年に 李自成の乱 が起こり、反乱軍が北京を占領して明が倒れると、清に協力してその先鋒となり、山海関を越える清軍を誘導して北京まで導き、清の中国制圧に大きな功績を立てた。 関東軍. 清代になると、この地より東のいわゆる満州地方が、山海関の東に当たることから「関東」と言われるようになった。 行政上は奉天省・吉林省・黒竜江省の三省がおかれ、 東三省 、または 関東州 とも言われた。 後に遼東半島に進出した日本軍が、その権益を守る派遣部隊を「 関東軍 」と称したのはそのためである。 7章1節 用語リストへ. Next . 印 刷. 印刷画面へ.|jbs| acb| ncw| vab| nkg| lft| aal| ung| xap| jxs| ryb| faa| icv| lqt| erj| jjc| ubd| tgk| jgs| vcg| wov| yrn| hnc| acd| fve| wxt| jew| aas| mtl| wlf| wgi| xdk| ioj| bon| sox| afi| hdu| ink| xvj| sjv| roh| ujk| nqf| lyu| knh| kuq| vnl| syg| wyj| hro|