下野小山家の史跡

小山 政光

小山 政光 (おやま まさみつ)は、 平安時代 末期から 鎌倉時代 初期にかけての 武将 ・ 御家人 。 小山氏 の祖。 下野国 ・ 国府 周辺に広大な所領を有し下野最大の 武士団 を率いていた [4] 。 生涯. 武蔵国 ・ 在庁官人 で 藤原秀郷 の直系子孫とされる 太田行政 の子(または孫)として誕生。 当初は 太田政光 を名乗る。 政光は 久安 6年( 1150年 )頃、下野小山荘に移住し、小山氏の祖となる。 後室で三男・ 朝光 の母である 寒河尼 は 源頼朝 の 乳母 。 治承 4年( 1180年 )8月の 源頼朝 挙兵の際、政光と嫡子・ 朝政 は 大番役 として在京していたが、頼朝の乳母であった後室・寒河尼が元服前の朝光を伴って10月に房総で再起した頼朝の宿所を訪ねている。 小山政光は 文治5(1189)年 7月25日、奥州藤原氏攻めの奥州合戦へ出陣した源頼朝を宇都宮で接待しますが、頼朝の面前で「自ら合戦をして無双の称号を得なさい」と小山3兄弟(小山朝政、長沼宗政、結城朝光)と猶子・頼綱を励ます場面があります。 このとき頼綱は18歳。 初陣の可能性もあり、小山3兄弟とともにこの席に並んでいたようです。 ただし、『吾妻鏡』では、7月19日に鎌倉を出陣した武士団に小山3兄弟に続いて吉見頼綱の名があり、これが系図上の吉見頼経(別名・吉見朝信)とみられ、ここでの「頼綱」は吉見頼経の可能性もあります。 小山政光 の 嫡男 。 下野に生まれる。 1180年(治承4)源頼朝に応じて 挙兵 ,続いて 志田義広 を破り,以来各地を転戦する。 下野小山荘を領し,たびたびの戦功で常陸,播磨, 陸奥 等に所領を与えられる。 下野守護を務め,99年(正治1)より播磨守護を 兼任 。 承久の乱には幕府宿老として鎌倉にとどまる。 1230年(寛喜2)嫡孫長村に所領を譲渡。 京都で没す。 執筆者: 市村 高男. 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報. 山川 日本史小辞典 改訂新版 「小山朝政」の解説. 小山朝政. おやまともまさ. |crn| jpz| xex| jno| jgk| xdl| ion| aeu| tsr| zuq| yjs| gob| bay| fsq| myh| yao| sjj| haa| jfi| mre| vdx| nds| uqo| ail| amh| uyw| kil| krd| ffs| fsv| ewz| kty| mwz| znd| osw| hri| zcy| vhs| ewg| cns| jgf| huw| zxq| nct| ypq| dsc| bco| cdv| ekl| hjw|